鱗模様の風呂敷
風呂敷の模様で、普段見慣れているのに、意外と意識して名前を知らないものも多くあります。
「こんなにわかりやすいのに!」そう、そのシンプルさゆえにかえって意識されづらいのかもしれません。
その代表格が「鱗」模様といえるでしょう。正三角形または二等辺三角形がひたすら連なっており、
たとえば白と黒の反転で互い違いになっているような文様です。
このように単純な図形を、形と大きさを変えずに色で交互に入れ替える模様を
「入れ替わり模様」といい、装飾・デザインの原点ともいえる象徴的なものです。
これが四角形ならば「市松」、六角形を「亀甲」、と呼ばれるように、この三角形の「鱗」も
自然界にある形でありながら、実はたいへん深いイメージの広がりを内包しているデザインなのです。
鱗のある動物といえば、聖書にもでてくる魚や蛇ですね。
世界的にも発生が古く、紀元前4世紀頃の中央アジアにおいて陶器に描かれているのが見つかっています。
日本では弥生時代中期の土器に鋸歯紋と呼ばれる三角形の連なりが装飾されており、
古墳時代の壁画にも描かれているのが知られています。
この原始的な使われ方の多くは、死者を悪霊から護るという呪術の目的と推測されていて、
日本やアジアの葬儀風習で、死者に三角形の布を額につけるのも同じ理由からです。
また古来、海蛇や龍への信仰から海難除けの守護として、海の民には腕に三角文様の入れ墨を入れる風俗がありました。
鱗のある強い生き物の力で、死という避けがたい厄災を少しでも食い止めるというイメージは、人類共通であったということです。
その強い力の象徴である三角形を様々に借りて、日々の生活を少しでも守ろうとしたのです。
そして時代が下り、歌舞伎や能学が様式として成熟した江戸時代になると、物語の意味解釈を裏付ける
小道具である着物衣裳の文様は大きくイメージを拡げ、定着させてゆきます。
「京鹿子娘道成寺」の大ぶりで鮮やかな衣裳が有名ですが、その意味するところは
恋心のあまり蛇に変化した美しい女性の魔性をあらわすと共に、歌舞伎舞踊で上演することで
死者の霊を弔う祈りという両面を具えています。
安珍清姫伝説の後日談を舞う「京鹿子娘道成寺」
古くは、道成寺伝説をテーマとした道成寺ものと呼ばれる演技がいくつかあり、
一つ一つにお家芸のユニークな振付けを入れたものです。
歌舞伎役者の初代富十郎は、このような道成寺ものの演技の中から
百千鳥娘道成寺というものを構成の基盤とし、自分の当り芸である娘道成寺を作りました。
今に至るまで曲と振付けがしっかり伝わっているのは、初代富十郎作の娘道成寺だけとなっています。
これは、技術的に高い技能が問われるだけてはなく、時間にして
1時間以上を一人で踊ることになるので、かなりの体力も必要になります。
この踊りは歌舞伎舞踊の頂点に立つ作品で、数多くの名優が演じました。
現在では七代目尾上菊五郎、十八代目中村勘三郎、四代目坂田藤十郎、五代目坂東玉三郎が演じています。
九代目團十郎は、当時立役でもあった十代の頃には娘道成寺を踊ることを毎日の日課にしていました。
その後に本人はこの踊りには踊りの全ての要素が入っており、基礎訓練には良い教材だったと述べました。
このように、娘道成寺は現在に至るまで曲や振付けが残っており、
高い技能と体力が必要な踊りであり、数々の名優が演じた由緒ある踊りです。
風呂敷は様々なシーンで活躍する
このように、非常に強い護符の役割を、日常生活で使う風呂敷にも求めたことは、自然ななりゆきです。
風呂敷の使われ方としては、どちらかというと格の高い、贈答やお祝いなどのシーンに似合います。